一条天皇 いちじょうてんのう
- 上 うえ
980~1011。平安時代中期の天皇。在位986~1011。円融天皇と藤原詮子の皇子。5歳のときに花山天皇の皇太子となり、花山帝の出家事件にともない、7歳で即位した。外祖父の藤原兼家が摂政を務め、その後も兼家の息子の道隆や道兼が相次いで摂政・関白を、道長が内覧を務めるなど、藤原氏が全盛へと向かう時期を過ごした。温和で才学に富んでおり、藤原氏と衝突することなく、廷臣たちの信頼も厚かった。在位中は優れた人材が多数輩出され、皇后定子に仕えた清少納言や中宮彰子に仕えた紫式部をはじめ、女性たちの活躍も目覚ましかった。
登場作品
『枕草子』
第7段 上に候ふ御猫は
従五位下の位まで与えてかわいがっている猫・命婦のおとどが、宮中の飼い犬・翁丸に驚かされたのを見て腹を立て、翁丸を追い払うように命じた。命婦のおとどのお守役を務めていた女房・馬の命婦も、不注意だったからと解任してしまった。後日、翁丸が宮中に戻ってきたときにはお咎めを許した。
第21段 清涼殿の丑寅の隅の
中宮定子のもとに渡ってきていた。定子が、宣耀殿の女御こと藤原芳子が『古今和歌集』を全巻覚えていたという逸話を語ったのに対して「自分は3、4巻でも難しい」と感嘆した。
第47段 職の御曹司の西面の立蔀のもとにて
第83段 職の御曹司におはしますころ、西の廂に
年の瀬に大雪が降って、中宮定子に仕える女房たちが巨大な雪山を作った。この雪山がいつまで解けずに残っているか予想することになり、清少納言は「正月十日過ぎまでは残っています」と答えた。そして、なんとか正月十五日まで残そうと下仕えの者などに頼んで見張らせたりしていた。ところが、定子がこの雪山をこっそり壊すように命じてしまった。清少納言がたいそうがっかりしているのを見て、居合わせた天皇は笑いながら「宮(定子)はあなたに勝たせまいとしたのだろう」と言った。
第100段 淑景舎、春宮にまゐりたまふほどの事など
午後2時頃中宮定子のもとにやってきて、日の入りぐらいまで過ごして戻っていく。その後、定子を清涼殿に召す。
第101段 殿上より
ある日殿上人たちが、花の散った梅の枝を清少納言のところに持ってきて、返答を求めた。清少納言が『和漢朗詠集』に収められた詩の一節を用いて返答したところ、殿上人たちから称賛された。この話を聞いた一条天皇も、「うまい返しをしたものだ」と述べた。
第123段 はしたなきもの
石清水八幡宮への行幸からの帰途、母・東三条院の桟敷の向こうに輿を止めて、母に挨拶の文を送った。その心づかいのすばらしさに、清少納言は感激して涙が止まらず、きまりの悪い思いをした。
第127段 二月、宮の司に
定考(こうじょう=官吏の任命式)の日のこと、藤原行成が清少納言に、餅餤(へいだん=餅菓子の一種)と公文書に模した手紙を贈った。清少納言からの手紙の返事が、機転の利いた内容だったので、行成は感心して、この件を一条天皇にも話した。一条天皇もそれを聞いてほめたたえた。
第132段 円融院の御果ての年
第136段 なほめでたきこと
賀茂神社の臨時の祭りの際、女房たちが、舞人が舞い終わって去っていくのを惜しんでいると聞いて、再び呼び戻して舞を披露させた。
関連する人物 藤原定子
第228段 一条の院をば今内裏とぞいふ
内裏が焼けたので、一条大宮院を仮の内裏として移っていた時期のこと、笛の師である藤原高遠と笛を奏して過ごしていた。
その頃藤原輔尹という粗野な者がいて、殿上人や女房たちは、彼をからかう歌を作った。一条帝もその歌を笛で奏したが、本人に聞かれるのでは、と遠慮がちだった。しかし、定子のもとに渡ったときには、輔尹に聞かれる気遣いがないからと、心置きなく件の歌を奏したのだった。
第293段 大納言殿まゐりたまひて
『十訓抄』
第1 人に恵を施すべき事 1-01
第1 人に恵を施すべき事 1-11
第1 人に恵を施すべき事 1-21
雪が美しく降った朝、その降り積もった雪を眺めながら「香炉峰の雪はどうであろうか」と問いかけた。すると、御前に控えていた清少納言が何も言わずに御簾を外に押し出して見せた。
この清少納言のほかにも一条天皇の御代には優れた人材が数多く集まったので、「私が人に恵まれていることは、延喜・天暦の御代にもまさっている」と自賛した。
関連する人物 清少納言 紫式部 赤染衛門 和泉式部 小式部内侍 伊勢大輔 高階貴子 相模 出羽弁 小弁 馬内侍 江侍従 新宰相 兵衛内侍 上東門院中将 藤原斉信 藤原公任 藤原行成 源俊賢 良源 寛朝 円融天皇 小大君 上東門院 大江匡衡 藤原道長 藤原有国 大江匡房 藤原頼通 源師房 藤原清隆 丹波雅忠 允恭天皇