村上天皇 むらかみてんのう
- 御門 みかど
926~967。平安時代中期の天皇。在位946~967。醍醐天皇の皇子。母は藤原穏子。兄・朱雀天皇の譲位を受けて即位。即位時に関白だった藤原忠平が亡くなったあとは、忠平の息子・実頼と師輔らの助けも得ながら自ら政治を執って「天暦の治」と呼ばれた。和歌や漢詩、音楽などにも優れ、『後撰和歌集』を編纂させた。
登場作品
『宇治拾遺物語』
巻2-1 19話 清徳聖、奇特の事
清徳聖についていた餓鬼や畜生たちが、食べ物を与えられたあと、都の四条の四条の北の小路に糞便を垂れ流して歩いたため、小路は黒くなってしまった。人々は汚がって「糞の小路」と呼んだ。この話を聞いた村上天皇は、四条の南の小路の呼び名「綾の小路」にあやかり「錦の小路」と呼ぶように言った。
巻11-1 124話 青常の事
『枕草子』
第21段 清涼殿の丑寅の隅の
中宮定子が語る逸話に登場する。女御の芳子が『古今和歌集』を全巻暗誦できると聞いて、本当にできるのかテストをする。芳子がちょっとでもまちがえたら、それで終わりにしようと考えていたが全くまちがえることがなく、夜が更けるまでかかって全巻通してみたが、やはりひとつもまちがえずに終わったという。
第175段 村上の先帝の御時に
雪がたいそう降って月が明るい夜のこと、器に雪を盛り、梅の花を挿したものを兵衛の蔵人という女房に見せて、「これについて歌を詠むように」と命じた。兵衛の蔵人は、単に歌を詠むのではなく、『白氏文集』所収の詩に帝を思う心をこめて奏上したので、これを聞いてたいへん称賛した。
別なときには、火鉢に煙が上がるのを見て、やはり兵衛の蔵人に、「何の煙か見てまいれ」と言った。実は蛙が飛び込んで焼けていたのだが、兵衛の蔵人はその旨を、藤原輔相の歌「わたつ海の沖に漕がるるもの見れば…」を借りて報告したのだった。
清少納言が聞き書きによって記したエピソードらしい。
第176段 みあれの宣旨の
みあれの宣旨という女房から「ともあきらの王(おおきみ)」と名付けた五寸ほどの大きさの殿上童の人形を献上されて、たいへん興がった。
関連する人物 みあれの宣旨