藤原道長 ふじわらのみちなが

  • 御堂入道殿 みどう(の)にゅうどうどの
  • 御堂関白殿 みどうかんぱくどの
  • 御堂殿 みどうどの
  • 宮の大夫殿 みやのだいぶどの

966~1027。平安時代中期の公卿。兄である関白道隆の死去に伴い、天皇を補佐する内覧に就いた。このとき甥・伊周(道隆の息子)との政争が起こったが、姉・東三条院の後ろ盾を得て、これに打ち勝った。その後、彰子をはじめとした娘たちを天皇の后とし、3代の天皇の外戚として藤原氏の権勢を最大のものとした。晩年に出家して法成寺を建立したことから御堂関白と呼ばれたが、実際には関白の座には就いていない。一方で、この呼び名が、道長が関白に匹敵するほどの力をもっていたことを表しているといえる。

登場作品

『宇治拾遺物語』

巻4-9 61話 業遠朝臣、蘇生の事

高階業遠が死んだときに、「言い置くこともあっただろう」と気の毒がる様子が描かれる。さらに、解脱寺の観修僧正を呼んで祈祷をさせた。

関連する人物  高階業遠 観修

巻4-11 63話 後朱雀院、丈六の仏作り奉り給ふ事

後朱雀院(後朱雀天皇)にとって、藤原道長は外祖父にあたる(後朱雀院の母は上東門院)。院が重い病気にかかって後世のことを不安に思っていたところ、道長は院の夢に現れて「生前に自分が一丈六尺の仏像をたくさん造ったから、私の子孫であるあなたが地獄へ落ちることはない」と告げた。

関連する人物  後朱雀天皇 明快

巻14-10 184話 御堂関白の御犬・晴明等、奇特の事

藤原道長は、自分が建立した法成寺に白い犬をお供にして日参していた。ある日、その犬が寺の門に立ちふさがって吠え、主人を中に入れまいとした。不審に思った道長は、陰陽師・安倍晴明を呼んで原因を探らせた。すると、道長を呪詛するための呪物が埋められていることが判明した。それは芦屋道満(道摩法師)のしわざで、黒幕には藤原顕光がいた。道長は自らの意志で行ったことではないとして道満の罪を免じ、彼を播磨へ追放した。また、最初に危機を察知した犬をますますかわいがった。

関連する人物  安倍晴明 芦屋道満 藤原顕光

『枕草子』

第124段 関白殿、黒戸より出でさせたまふとて

兄の道隆が清涼殿から現れるときに、ほかの身内の者や公達が座って迎えるなか、ひとりだけ、戸の前に立っていた。しかし、道隆が歩き出すとひざまずいた。

関連する人物  藤原道隆 藤原伊周 藤原道頼 藤原定子

第260段 関白殿、二月二十一日に、法興院の

兄・道隆が積善寺で行う一切経供養に参列する。積善寺に向かう東三条院の輿に供奉し、続いて中宮定子の輿にもお供したが、東三条院にお供したときに着ていた下襲のままで定子のお供をすると、みっともないと思われそうだ、ということで、新たな下襲をわざわざ縫わせた。そのために、定子の出立が、予定よりかなり遅れた模様。

関連する人物  藤原道隆 藤原定子 東三条院 藤原伊周 藤原隆家 【藤原道隆三女】 【藤原道隆四女】 藤原原子 高階貴子 藤原道兼 高階明順 丹波重雅 藤原道頼 隆円 藤原道雅 高階信順 源則理

『十訓抄』

第1 人に恵を施すべき事 1-21

娘の彰子の御産が重かったので、あわてて障子を開けて飛び出してきて、「どうしたものか、祈祷を増やしたほうがよいか」と言った。すると藤原有国が「御産はもう終わりました」と答える間に女房がやって来て「御産が終わりました」と報告した。後日有国に、「どうして御産が終わったとわかったのだ」と尋ねると、有国は「障子は『子を障る』と書きます。その障子が広く開いたので、『御産は終わりました』と申しあげたのです」と答えた。

関連する人物  一条天皇 清少納言 紫式部 赤染衛門 和泉式部 小式部内侍 伊勢大輔 高階貴子 相模 出羽弁 小弁 馬内侍 江侍従 新宰相 兵衛内侍 上東門院中将 藤原斉信 藤原公任 藤原行成 源俊賢 良源 寛朝 円融天皇 小大君 上東門院 大江匡衡 藤原有国 大江匡房 藤原頼通 源師房 藤原清隆 丹波雅忠 允恭天皇

第1 人に恵を施すべき事 1-32

東三条殿を造ったときのこと。施工責任者の藤原有国は、透廊の一部の上長押を打たなかった。道長が理由を問うたが、明確な返事はなかった。やがて、娘の彰子が入内するとき、件の上長押がないおかげで、輿がつかえることなく通ることができた。そこで初めて、有国が先々の彰子の入内を見越して上長押を打たなかったことが判明したのだった。

関連する人物  藤原有国 伴善男